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天使みたいのブログ

天使みたいの日記

「見返りを期待しないで愛しなさい」とアダルトチルドレン

わたしはACで自己肯定感が滅法低い。

ちょっと怒られたり、相手に不機嫌の色を見るだけで、すぐに死にたくなったり絶望的な気持ちになってしまう。

そのわたしにとって、「見返りを期待しないで愛しなさい、何も期待しないこと」はすごくきつい。

もしこちらから好意を示して、相手に拒否されれば?そう考えただけで、何をするのが良いことか分かってても、足がすくむ。

否定されたと感じたら、わたしは絶対に暴走してしまうし、相手との関係を切ってしまう。

それを「見返りを期待してるから」と戒められるのはきついと感じる。

「相手に期待しないで善行をしなさい」というのは、健全な親元で育ち、ある程度には自己肯定感が育っている人が出来ることなのではないか、とたまに思う。

返ってこなかった時のリスク。「ムカつく」とかいう程度じゃない。絶望感や希死念慮まで湧いて、感情が暴走する余り相手を切ってしまうやるせなさ。

そのリスクを負ってまで、相手に愛情を与える覚悟。ない...

でも、私なりに頑張りたいとは思っている。

遥さんが言ってたんだけど、「皆は有り余る中から献金したのですが、この女は乏しい中から持っているもの全部を投げ入れたのです」(マルコ12:43)っていう聖書箇所、

「善い行い」にも当てはまるよね、って。目からウロコだった。

「愛せない、返ってこないのが怖い、皆は色んな人と交流して愛してるのに駄目だ」って思ってたけど、恐怖と闘いながら、自分は自分に出来ることを精一杯やるし、神様は、それを、自己肯定感やコミュニケーション能力の高さ故にたくさん愛した人と、寸分違わず公平に評価してくれる。

納得した。

コミュ障トーク会(ジモティ参照)

境遇が似た友達が欲しい(ていうか友達欲しい)ってずっと前から思ってるけれど、

フリマ(物の売り買い?)として有名なジモティというwebサービスで、メンタルに問題を抱えてる人たちの集まりが結構掲示されてることに最近気が付きました。ライングループとか、オフ会とか。

ちなみに明日は神奈川の橋本公民館というところで大規模な(実際訪れないと分からないけれど)メンヘラのトーク会があるそうです。

 

jmty.jp


自助グループとかに行って仲間を作れる人のコミュ力ってすごいな、と思います。

 

でも、ツイッターとかで仲良くなってからオフ会するよりハードル低そう、って思います。個人的に、ネット上で仲良くなってから会うの、凄く緊張します。がっかりされそうで。(わたしは文章だとよく喋るけど、実際会うと冷静に見えるそうですが強迫性障害で脳が機能しないため自分で何言ってるのか分かりません)

 

いきなり会って、最初からがっかりされる方が楽です。

 

 

人間関係を切ってしまう(パーソナリティ障害?)

抑えられない破壊衝動

ずっと悩んでいることがあるんだけど、わたしはすぐに人間関係を切ってしまう。例えばAさんと仲が良くなったとして、最初は純粋に好きで、嬉しい。でもそこにBさんが現れて、Aさんと仲良くなる。(Bさんはわたしにも友好の意を示してくれるかも知れない)

 

普通はここで、グループみたいに三人で仲良くなるものだろう。

 

でもわたしの場合、二人の仲に嫉妬して、AさんにもBさんにも怒りと恨みが湧いて、わたしは捨てられた、と思って、AさんもBさんも切ってしまう。

携帯を壊す

このような個人的な関係だけでなく、感情に始末が負えなくなると、すべての人間関係を断ち切ってしまうことがある。

 

突然携帯を投げ壊して、すべての連絡先をわざと失う。

 

だから最初は200件くらいあった連絡先も、いまは10件に満たない。みんな連絡先が分からなくなってしまった。

 

携帯を投げ壊す時、わたしはすべての人に対して怒りを抱えている。見捨てられた、見下された、愛してくれなかった、どうして?なんで?わたしはこんなに苦しいのに。そんな気持ちでいっぱいで、制御することが出来ない。

 

携帯はいままで5回くらい壊してて、買い替えが大変です(T▽T)

”気の持ちよう”ではどうにもならない

わたしだって人間関係を失うのはすごく嫌だし、いつもどんなに見捨てられた、苦しい、嫉妬する、愛されなかったという恨みで感情がいっぱいになっても、ギリギリまで我慢に我慢を重ねている。

 

絶対に切らない、いつもそう思うのに...。

 

やっぱり感情をコントロールすることは出来なくて、切ってしまう。

 

そしていつも泣く。どうでもいい人間関係なんてない。大事な人を失った後、後悔に襲われて涙が出てくる。

 

最初から出会わなければよかった、って思う。

 

わたしがどんなに後悔しても、泣いても、相手にとっては痛くも痒くもないのが、また寂しい。忘れて欲しくなかった。マイナスでもプラスでもいいから感情を持って欲しかったと思う。

恋人とだけは何とかなってる

こんな感じで、わたしは安定した関係を持つことが出来ない。

 

唯一恋人?(なのかどうなのかな)とは安定してはないけど関係は続いている。それは彼がかなり気遣ってくれてるからだ。

 

わたしの前では他の人の話しをしない。少しでもそういう話しをすると、わたしは「わたしよりそっちの人の方が良いんだ」と怒り出すから。

 

彼の中で例えわたしが99%で他の人は1%だとしても、他の人に関心があるというだけで、わたしは「見捨てられた」「わたしなんていらないんだ」と怒ってしまう。

 

可愛いすね方とかじゃなくて、深刻に怒るし時に爆発して突然叫び声を上げたり殴ったりするwあと物を投げまくって障子に穴空けたり壁を傷つけたりして悲しくなってまた泣くw

解決策が欲しい

どうすればいいんでしょうね...。

 

境界性パーソナリティ障害かな、と思ったけど、境界性パーソナリティ障害自傷や他傷が診断基準に入るらしく、わたしはリストカットはしてない。

 

自分が愛されない恐怖のあまりに、他の人より劣っていると思う恐怖の余りに付き合いを避けるから、回避性パーソナリティ障害なのかな。

 

深刻に悩んでいるので、解決策が欲しい。

 

教会に行けた

昨日は教会に行けて嬉しかった。

 

体調不良でなかなか行けなくて、行けてないうちに「ちゃんと通えてないことを牧師や信徒に裁かれてるんじゃないか...?」と妄想してしまって、結局行けなくなるパターンがいつもだった。(実際、「毎週ちゃんと来ましょう」とか「努力よ」とか言われることがあった)

 

いま通っている教会は午後礼拝。(午前もあります)

 

人数も少なくて、牧師さんが話しかけてくれる。

 

「来れるときだけでいいんですよ」と言ってくれた。


行ける時だけ、行っていい教会がやっと出来た。。。

 

説教も、すごくいい。あまり自説は展開せず、今日の聖書箇所について丁寧に解説してくれる。勉強になって面白い。

 

祈って聖書を勉強できて献金出来て嬉しかった。

 

わたしは人が怖いので一人では教会に行けないのですが、いまは恋人も一緒についてきてくれている。(恋人が行けない日は行けないですが...)

 

楽しさと虚しさはいつも表裏一体だけど、信仰からくる嬉しさっていうのはやっぱり信仰からしか来なくて、久々に満たされて癒された。

 

これから新しい仕事が始まるかも知れないけど、出来るだけ毎週通いたいな。

迫害された苦しみ

調度一年くらい前、わたしはある人と争いを起こしてツイッターのアカウントを消した。この文章は当時、その事件の傍観者だった人だけが読んでくれればいいと思っているので、事件のあらましは省略する。あの事件を覚えている人だけ読んでくれれればいい。

 

わたしはこの一年間、”日常”を過ごせなかった。心がずっとあの事件の中にいた。寝れない夜を過ごし、朝起きた途端に絶望していた。今日もあの事件の再生が始まる、自分の中だけで。

 

自分が我慢すればいいんだ、何もなかったことにすればいいんだ、と思っても、記憶が消えてくれるわけではない。口を閉ざしたままでいれば、わたしは誰にも話せない記憶を抱えたまま、わたしを迫害したクリスチャンに恨みを抱いて生きることになるだろう。あの事件の全貌を知ってるのは自分しかいない。だから語ってやれるのは、自分しかいないと思う。

 

1事実について

争いのお相手をSさんと呼ばせていただく。Sさんは「Mさん(わたし)が「Sさんに嫉妬する、Sさんの人生は虚しいと分かってスカッとした」と書いた」と書いた。

 

わたしが一方的にSさんの陰口を書いてそれに対してSさんが怒ったみたいな形になっていたが、実際には、Sさんも名前を伏せてとはいえ、「クリスチャンなのに~」「それでもクリスチャンなの~」といったわたしへの言及を以前からしていた。また、わたしが何気なくつぶやいた誰宛でもないツイートを取り上げて「~って書かれた。ツイッターの闇w」などと書いていたので、Sさんには認知のゆがみというか、被害妄想もあったと思う。

 

もちろん彼女も何もなくていきなりわたしのことを書き始めた訳ではない。そのきっかけとなる事件がまたあった訳だし、わたしはその事件でも大いなる過ちを犯したのだが、これも結構彼女の認知のゆがみがあったと思うので、またいつか書くかも知れないけどたぶんエネルギーがない。(何とでも誤事実を蒔いてくれとも...

 

ブロックしたし、それでもアカウントを監視されてるのは知っていたから、アカウントを引っ越したりもした。それでもそれは変わらなかった。

 

2そもそもSさんの言うようなことを書いてないような

実際には、「「(彼女と自分の境遇の違いを述べて)何でこんなに人生が違うの?神様は不公平だ」と恋人に話したら、「そうかな、虚しい人生だと思うけど」と返ってきて、考え方が変わって心が落ち着いた」と書いた。

 

「Sさんの人生は虚しいと分かってスカッとした」とは書いてないような...。恋人の「虚しい」の意味はちゃんと確認していないので分からないが、わたしがいつも「Sさんに~って書かれてる...」と愚痴をこぼしていたので、わたしに対して蔑みの発言を繰り返すSさんに対して「弱者を蔑んでるまま順調でいける人生って虚しいと思うけどな」の意味だったと思う。

 

わたしの「落ち着いた」は、環境にも人間関係にも恵まれてる彼女こそ神に祝福されてる証拠じゃないか、という価値観が少し変わったという意味。

 

そして、わたしがそれを書いたのは、彼女がわたしのアカウントをブロックしてる先から監視してるのを知っていたから、「もうやめてくれ」みたいな意味合いがあった。

 

そんな変わんないか...。結果的に陰口ですね、ごめんなさい。

 

※いまここで、事実を慎重に吟味して、どっちが悪者か、と決着を着けたい訳ではない。ただ、事実誤認が、わたしをいちばん苦しめた。事実の全貌を知った人々に裁かれるなら、仕方ないことだった。しかし、事実の一部だけを知った人たちに物知り顔で裁かれるのは辛かった。

 

3みんな彼女の言うことを信じた

実際には「Mさんに嫉妬された。スカッとしたと書かれた」という彼女の発言以外にわたしが陰口を書いたという事実は確認できなかったと思うけど、わたしは煽り、当てこすり、捨て台詞、などと言われ、わたしをブロックした人も何人かいた。

 

でも実際には見えないとこで色々あったんだよ、とあの時言いたくても言えなかった。また「陰口」って言われそうだったから。

 

4傍観者への憎しみ

上手く書けなくなってきた...。

 

わたしは当時、繰り返す蔑みの発言のうえに、「ちゃんと救われてますか?まずはちゃんと教会に通ってください。聖化への道のりは遠いでしょうが一緒に頑張りましょうね」というリプライが来た時、(当時は住居を失う恐れの中にあり、病苦の中で日曜日は労働していたし、教会に通うとか聖化どころではなかった...)

あまりの怒りと憎しみに、彼女を視界に入れることが出来なくなった。なので彼女のアカウントは当時から現在まで一度も目に入れてないのだが、やっぱり多くの人が彼女に味方したのだろう、辛かった、嫌だった、苦しかった。

 

5「恵まれたクリスチャン」への憎しみ

正直言って、わたしは”弱者”だと思う。

 

頼れる両親や人間関係はない、実家は貧しいのでお金を借りることは出来ない、いつも複数の病苦の中にある。それでもお金を稼がなくてはいけない、わたしと同年代でホームレス寸前の恐怖を何度となく味わった人は、そんなに多くはないと思う。

 

あの時わたしのことを裁いたのは、少なくともわたしよりは恵まれた人たちだったのかな、と思う。大学に行かせてもらえていたら、少なくともわたしよりは恵まれています。

 

だから?弱者だから何でもしていいの?それは違う。わたしはわたしのしたことについて、開き直りはしていない、わたしはわたしですごく悪いことをした、誰かを傷つけた。悔い改めだって何度もした。自分に罪はない、と言いたい訳ではない、でも、わたしだけが悪者だったの?とは思う。わたしがいちばんお金がなくて苦しかった時、Sさんに、クリスチャンたちに裁かれた、という記憶は変わらない。

 

(ちなみに、わたしは幸福な人を憎むわけではない。幸せそうな人は好きだ。そうではなくて、経済や人間関係において挫折を味わったことがない”境遇の恵まれた人”が、無意識に弱者を見下し裁く「行為」を憎んでいる。)

 

6「期待通りの弱者」になれない

弱者というと、ただ苦しい、辛いというだけで、その苦しみの二次的作用(恵まれたものへの嫉妬や恨み、愛どころか全世界への憎しみを抱くような)のない、浄化されて小さくされた人を思い浮かべる人は多いのだろうか。

 

目をうるうるさせ、「辛い、助けて」と言い、お慈悲をいただけば「何て慈悲深い方でしょう、ありがとうございます」と謙遜に感謝を述べる人。

 

わたしはそうはなれなかった。

 

わたしが前より人に噛みつかなくなったのは、少なくとも当時よりは多少生活に余裕が出来たからだと思う。

 

わたしはこれからも「恵まれているゆえに想像力に欠け、弱者を見下してるに関わらず見下してるとは決して気付かず、行いがないことを裁くクリスチャン」に対して潜在的な怒りを抱くし、そういうことについて言及することがあるかも知れない。

 

その様は牙を剥く狼のようで、まるで弱者らしくはないし、善良なクリスチャンから見れば「行いのないクリスチャン」だろう。

 

でもそう思われても仕方ないか、って思っている。人の「弱者のイメージ」に関わらず、わたしは生きることに困難を覚え、病気や貧しさに苦しめられてる弱者だった。それは残念ながら事実なのだった。

 

(わたしはわたしで、あの時やいまの自分の罪を日々悔い改めてるし、自分の気付いていない罪もたくさんあるだろうが、簡潔にするために、あえてこの文章の中に自分を省みている旨の表現をねじ込むのは省きました)