天使みたいのブログ

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迫害された苦しみ

調度一年くらい前、わたしはある人と争いを起こしてツイッターのアカウントを消した。この文章は当時、その事件の傍観者だった人だけが読んでくれればいいと思っているので、事件のあらましは省略する。あの事件を覚えている人だけ読んでくれれればいい。

 

わたしはこの一年間、”日常”を過ごせなかった。心がずっとあの事件の中にいた。寝れない夜を過ごし、朝起きた途端に絶望していた。今日もあの事件の再生が始まる、自分の中だけで。

 

自分が我慢すればいいんだ、何もなかったことにすればいいんだ、と思っても、記憶が消えてくれるわけではない。口を閉ざしたままでいれば、わたしは誰にも話せない記憶を抱えたまま、わたしを迫害したクリスチャンに恨みを抱いて生きることになるだろう。あの事件の全貌を知ってるのは自分しかいない。だから語ってやれるのは、自分しかいないと思う。

 

1事実について

争いのお相手をSさんと呼ばせていただく。Sさんは「Mさん(わたし)が「Sさんに嫉妬する、Sさんの人生は虚しいと分かってスカッとした」と書いた」と書いた。

 

わたしが一方的にSさんの陰口を書いてそれに対してSさんが怒ったみたいな形になっていたが、実際には、Sさんも名前を伏せてとはいえ、「クリスチャンなのに~」「それでもクリスチャンなの~」といったわたしへの言及を以前からしていた。また、わたしが何気なくつぶやいた誰宛でもないツイートを取り上げて「~って書かれた。ツイッターの闇w」などと書いていたので、Sさんには認知のゆがみというか、被害妄想もあったと思う。

 

もちろん彼女も何もなくていきなりわたしのことを書き始めた訳ではない。そのきっかけとなる事件がまたあった訳だし、わたしはその事件でも大いなる過ちを犯したのだが、これも結構彼女の認知のゆがみがあったと思うので、またいつか書くかも知れないけどたぶんエネルギーがない。(何とでも誤事実を蒔いてくれとも...

 

ブロックしたし、それでもアカウントを監視されてるのは知っていたから、アカウントを引っ越したりもした。それでもそれは変わらなかった。

 

2そもそもSさんの言うようなことを書いてないような

実際には、「「(彼女と自分の境遇の違いを述べて)何でこんなに人生が違うの?神様は不公平だ」と恋人に話したら、「そうかな、虚しい人生だと思うけど」と返ってきて、考え方が変わって心が落ち着いた」と書いた。

 

「Sさんの人生は虚しいと分かってスカッとした」とは書いてないような...。恋人の「虚しい」の意味はちゃんと確認していないので分からないが、わたしがいつも「Sさんに~って書かれてる...」と愚痴をこぼしていたので、わたしに対して蔑みの発言を繰り返すSさんに対して「弱者を蔑んでるまま順調でいける人生って虚しいと思うけどな」の意味だったと思う。

 

わたしの「落ち着いた」は、環境にも人間関係にも恵まれてる彼女こそ神に祝福されてる証拠じゃないか、という価値観が少し変わったという意味。

 

そして、わたしがそれを書いたのは、彼女がわたしのアカウントをブロックしてる先から監視してるのを知っていたから、「もうやめてくれ」みたいな意味合いがあった。

 

そんな変わんないか...。結果的に陰口ですね、ごめんなさい。

 

※いまここで、事実を慎重に吟味して、どっちが悪者か、と決着を着けたい訳ではない。ただ、事実誤認が、わたしをいちばん苦しめた。事実の全貌を知った人々に裁かれるなら、仕方ないことだった。しかし、事実の一部だけを知った人たちに物知り顔で裁かれるのは辛かった。

 

3みんな彼女の言うことを信じた

実際には「Mさんに嫉妬された。スカッとしたと書かれた」という彼女の発言以外にわたしが陰口を書いたという事実は確認できなかったと思うけど、わたしは煽り、当てこすり、捨て台詞、などと言われ、わたしをブロックした人も何人かいた。

 

でも実際には見えないとこで色々あったんだよ、とあの時言いたくても言えなかった。また「陰口」って言われそうだったから。

 

4傍観者への憎しみ

上手く書けなくなってきた...。

 

わたしは当時、繰り返す蔑みの発言のうえに、「ちゃんと救われてますか?まずはちゃんと教会に通ってください。聖化への道のりは遠いでしょうが一緒に頑張りましょうね」というリプライが来た時、(当時は住居を失う恐れの中にあり、病苦の中で日曜日は労働していたし、教会に通うとか聖化どころではなかった...)

あまりの怒りと憎しみに、彼女を視界に入れることが出来なくなった。なので彼女のアカウントは当時から現在まで一度も目に入れてないのだが、やっぱり多くの人が彼女に味方したのだろう、辛かった、嫌だった、苦しかった。

 

5「恵まれたクリスチャン」への憎しみ

正直言って、わたしは”弱者”だと思う。

 

頼れる両親や人間関係はない、実家は貧しいのでお金を借りることは出来ない、いつも複数の病苦の中にある。それでもお金を稼がなくてはいけない、わたしと同年代でホームレス寸前の恐怖を何度となく味わった人は、そんなに多くはないと思う。

 

あの時わたしのことを裁いたのは、少なくともわたしよりは恵まれた人たちだったのかな、と思う。大学に行かせてもらえていたら、少なくともわたしよりは恵まれています。

 

だから?弱者だから何でもしていいの?それは違う。わたしはわたしのしたことについて、開き直りはしていない、わたしはわたしですごく悪いことをした、誰かを傷つけた。悔い改めだって何度もした。自分に罪はない、と言いたい訳ではない、でも、わたしだけが悪者だったの?とは思う。わたしがいちばんお金がなくて苦しかった時、Sさんに、クリスチャンたちに裁かれた、という記憶は変わらない。

 

(ちなみに、わたしは幸福な人を憎むわけではない。幸せそうな人は好きだ。そうではなくて、経済や人間関係において挫折を味わったことがない”境遇の恵まれた人”が、無意識に弱者を見下し裁く「行為」を憎んでいる。)

 

6「期待通りの弱者」になれない

弱者というと、ただ苦しい、辛いというだけで、その苦しみの二次的作用(恵まれたものへの嫉妬や恨み、愛どころか全世界への憎しみを抱くような)のない、浄化されて小さくされた人を思い浮かべる人は多いのだろうか。

 

目をうるうるさせ、「辛い、助けて」と言い、お慈悲をいただけば「何て慈悲深い方でしょう、ありがとうございます」と謙遜に感謝を述べる人。

 

わたしはそうはなれなかった。

 

わたしが前より人に噛みつかなくなったのは、少なくとも当時よりは多少生活に余裕が出来たからだと思う。

 

わたしはこれからも「恵まれているゆえに想像力に欠け、弱者を見下してるに関わらず見下してるとは決して気付かず、行いがないことを裁くクリスチャン」に対して潜在的な怒りを抱くし、そういうことについて言及することがあるかも知れない。

 

その様は牙を剥く狼のようで、まるで弱者らしくはないし、善良なクリスチャンから見れば「行いのないクリスチャン」だろう。

 

でもそう思われても仕方ないか、って思っている。人の「弱者のイメージ」に関わらず、わたしは生きることに困難を覚え、病気や貧しさに苦しめられてる弱者だった。それは残念ながら事実なのだった。

 

(わたしはわたしで、あの時やいまの自分の罪を日々悔い改めてるし、自分の気付いていない罪もたくさんあるだろうが、簡潔にするために、あえてこの文章の中に自分を省みている旨の表現をねじ込むのは省きました)